みなさん、おうちモンテしていますか?
モンテッソーリ講師のあでりーです。
子どもの教育に関心のあるママなら「モンテッソーリ教育」を耳にしたことがあるのではないでしょうか?
モンテッソーリ教育はイタリア初の女性医師でもあった「マリア・モンテッソーリ」によって考案されました。
今回は、モンテッソーリ教育の生みの親である「マリア・モンテッソーリ」についてくわしく解説します。
彼女の生い立ちはもちろん、どのようにしてモンテッソーリ教育を確立させたのか、興味のある方必見です!
マリア・モンテッソーリとは?
マリア・モンテッソーリは、イタリア初の女性医師であり、その後教育者へ転身してモンテッソーリ教育を確立させました。イタリア通貨が現在のユーロではなくリラだったころ、紙幣にはマリア・モンテッソーリの肖像画が描かれていました。
モンテッソーリ教育の「モンテッソーリ」って人の名前だったんだね!
昔、イタリアでは紙幣に描かれたくらいすごい人なんだよ
マリア・モンテッソーリはある日、精神病の研究で訪れた保護施設で牢屋のようなところに閉じ込められている子どもたちに出会います。障がい児の子どもたちは、食事が済むと床に這いつくばり、パンくずを拾っていました。
彼らは何をしているんだろう?
子ども達のその姿は、研究熱心であったマリア・モンテッソーリの興味を惹きつけました。子ども達を一日中観察した結果、
この子達がパンくずを拾うのは、食欲を満たすためではない。自分が発達するための経験に飢えているからだ!
ここにはおもちゃなど、遊ぶものが何もない。パンくず拾いは彼らにとって唯一熱中できる作業なのだ。
と仮説を立てます。そして障がい児の治療の一環として、「感覚に訴えて、動きを伴った活動」ができるモノ(いわゆる、モンテッソーリ教具の原型となるモノ)を使い始めました。
- 落ちたパンくずを見つける
- つまむ
- 口に運ぶ
これらの動きを獲得するため、子どもたちはパンくずを拾っていたのだと仮定したんだね
すると、それまで何もできないと言われていた子どもたちが読み書きできるようになり、さらには公立学校の試験を健常児よりもいい成績で通過してしまいました。
これ、健常児に同じことしたらどうなるんだろう?(やってみたい!)
この事実に、研究熱心なマリア・モンテッソーリは同じ教育アプローチを健常児に実践したいと考え、その実験の場として1907年のイタリア/ローマに「子どもの家」を開校しました。
この「子どもの家」で実践されていた教育法が、その後「モンテッソーリ教育」として世界中に広がっていきました。
マリア・モンテッソーリの生涯
ここからはマリア・モンテッソーリの生涯をみていきましょう。
どのような人生を歩み、モンテッソーリ教育を発展させたのか解説していきます。
数学が好きだった幼児期
1870年(明治3年)日本が江戸から明治に変わって間もないころ、イタリアの中部キアラヴァッレでマリア・モンテッソーリは生まれました。
母のレニルデは大変厳しくマリア・モンテッソーリを育てています。といっても、熱心な詰め込み教育を行なったのではなく、編み物や掃除などの家事を子どもであるマリア・モンテッソーリにも分担させ、自律した人間になるよう躾けました。
まさに、モンテッソーリ教育の「日常生活の練習」だね
当時のイタリアでは学校や教師の質も悪く、受動的に与えられた知識を繰り返し練習する詰め込み教育が主流でした。さらに日本もそうでしたが、女性への教育も熱心に行われていません。
それでも数学が好きだったマリア・モンテッソーリは、当時の”当たり前”に染まることなく、やがて名門であるローマ大学医学部へ女性として初めて進学します。
偏見と差別の学生時代〜イタリア初の女性医師へ
進学した頃のローマ大学医学部は男性ばかりの学部でした。女性ゆえに偏見や差別を受けたことはいうまでもありません。
他の男子学生が全員席に着くまで、教室にも入れなかったわ
しかしマリア・モンテッソーリはさまざまな逆境を不屈の精神ではねのけ、首席で医学部を卒業します。イタリア初の女性医師の誕生です。
医師から教育者へ
卒業後、医師として活動を始めたマリア・モンテッソーリは、ある日パンくずを拾う障がい児と出会います。その出会いが彼女を変えました。
障がい児に知的な遅れがあるのは、身体的な特性のせいではない。教育方法に問題があるせいだ!
初めて”教育”に関心を持ったマリア・モンテッソーリは教育に関する文献を読み漁り、さらなる追求のため再びローマ大学でも学び始めます。
その過程で、ジャン・マルク・カスパー・イタールやその弟子のエドワール・セガンが考えた障がい児向けの「感覚に訴えて、動きを伴った活動」ができる教具を知ります。マリア・モンテッソーリはそれらの教具を改良し、自らの障がい児に導入したのです。
モンテッソーリ教具って、マリア・モンテッソーリが作ったわけじゃないの!?
もちろん、マリア・モンテッソーリオリジナルのものもあるよ。でも最初の頃の教具は、イタールやセガンの教具を参考にしているんだ。
彼女はこの二人のことを大変尊敬していたよ。
「セガン板」や「セガンの3段階レッスン」など、名前が残っているものもあるよね。
でもイタールもセガンも、感覚に訴えて、動きを伴った活動が健常児にも有効であるとは考えていなかった。私は教育者へ転身し、それを証明しました。
医師から教育者へと転身しましたが、マリア・モンテッソーリは根っからの理系です。とことん科学的に考え、証明し続けます。
医者は患者を観察し、科学的に病気を特定し、最適な治療を選択しますね。医者であったマリア・モンテッソーリはそのプロセスを子どもの教育に当てはめつづけました。その結果、子どもを科学するメソッドと言われるほど、モンテッソーリ教育は科学的に立証された教育法となったのです。
先入観にとらわれずに「子どもを観察する」。
モンテッソーリ教育が最も大事にしていることです。
自らの手で育てられなかった息子
マリア・モンテッソーリには一人息子がいます。しかし、数多くの子ども達に携わった彼女ですが、自分の息子だけは自らの手で育てられませんでした。
当時、女性が婚姻外で子どもを産むことは大変非難されることでした。それにも関わらず、マリア・モンテッソーリはシングルマザーです。未亡人となったのではなく、結婚をしていません。
そのため、マリア・モンテッソーリは秘密裏に息子を産み、出産から15年経つまで引き取ることができませんでした。
息子のマリオとは色々あったけど、最終的にはモンテッソーリ教育の普及活動を一緒にしていたよ
功績が認められた晩年
マリア・モンテッソーリは晩年、世界の平和と子どもの尊厳を世界各国に訴えます。
功績が認められ1950年ノーベル平和賞の候補にもなりました。
1952年、81歳でその生涯を閉じるまで教育者として子ども達のために活動し続けました。
モンテッソーリ教育は、当時よりも科学が進んだ現代の方がその正しさを認められているんだ
まさに時代の先端を歩んだ人、なんだね
まとめ
マリア・モンテッソーリについて紹介してきました。
彼女の波瀾万丈ともいえる人生が今日のモンテッソーリ教育につながっています。
マリア・モンテッソーリについて知ると、モンテッソーリ教育への理解が深まりますね。
この記事を読んで感じたことを、ぜひみなさんのおうちモンテに取り入れていってください。
#最後まで読んでいただきありがとうございます。
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